日本文化物語

茂呂美耶(Moro Miya)的網站

*

清水次郎長

      2014/12/16

shimizujirotyo_min

在電視或電影時代劇中廣為人知的賭徒大頭子,清水次郎長和他的手下大政、小政,均非虛構角 色,而是在日本幕末維新期至明治中期這段動盪時代中的實際人物。

1820年,次郎長以第三個兒子身分出生於靜岡縣清水市某船商家,原名為山本長五郎,8歲 時成為從事白米批發商的叔父山本次郎八的過房兒子。之後通稱「次郎長」。

年輕時便以好打架聞名。20歲時,養父病逝。次郎長繼承了家業,老實地過著日子,但22歲 時,給一位行腳僧看相,僧人對他說「很難活到25歲」。

愕然失色的次郎長自暴自棄地認為,「那我乾脆活得短暫又燦爛」,於是步入浪跡江湖的賭徒世 界。之後,次郎長與同行賭徒展開一連串的鬥爭,在東海道逐漸擴展勢力。據說全盛時期的勢力 延伸至名古屋。

明治政府即將替代德川幕府的1868年,高懸朝廷旗幟的官軍往江戶進兵時,命次郎長任職護 衛工作,並允許他稱姓帶刀。

而且該年9月,幕府軍艦「咸臨丸」在清水港與官軍抗戰。「咸臨丸」方敗戰。

當時眾人因深恐被官軍盯上,沒有人敢去撈回遺體給予埋葬,船員的屍體全被遺棄在海上。次郎 長覺得那樣太可憐,和手下合力撈回幕府軍遺體,隆重埋在家鄉私有地,並立了墓碑。

基於此事件,次郎長與幕府官員山岡鐵舟認識,交誼漸深後,改變了人生觀。

明治維新後,次郎長與暴力世界訣別,把全副精力投入海運事業、開墾、英語教育等社會事業。

他大概因親眼目睹世間的急劇變動,認為畢生老是在為爭地盤而鬥得你死我活的黑幫,是極為渺 小的存在。倘若他沒認識山岡鐵舟,可能終其一生都是黑幫人物,更不會於後世留下「東海道首 屈一指的俠客」美名。

次郎長生前娶了三位妻子,三人的名字皆為阿蝶。

第一任阿蝶本為次郎長的知己的妹妹,在次郎長仍浪跡江湖的時期結婚,一起過了十年左右。夫 妻倆身在名古屋時,阿蝶臥病,無奈當時過的是流浪外鄉的日子,沒法請醫生好好看病。導致阿 蝶病情惡化,於158年12月末病逝。

雖然辦了葬儀,卻因為是在旅途中過世,次郎長無法為她修墳建墓,深感遺憾。由於忘不了第一 任阿蝶,所以他讓第二個妻子也叫做阿蝶。

第二任阿蝶是東京深川的藝妓,兩人在伊豆因偶然同住一家旅館而認識。然而,第二代阿蝶於明 治2年(1869年)悲慘地結束一生。據說是舊德川幕府的無職武士砍殺了阿蝶,阿蝶雖然沒 有當場死亡,卻在傍晚斷氣。

第三任阿蝶是武家女子,具有武家子女應備的教養,比次郎長小17歲。她當上大頭子的妻子, 肩負底下有眾多手下的黑幫一家重責,應該很辛苦。

次郎長於1893年74歲過世,第三任阿蝶則於1916年81歲高齡過身。她的辭世詩是:

「離開無指靠的現世,換上旅途裝束,我要去見彼世的人,真是欣喜若狂」。

「彼世的人」指的當然是亡夫次郎長。

次郎長的墳墓位於清水市梅陰寺,一旁立有妻子阿蝶的墓碑。墓碑上融洽地並排著第一代、第二 代、第三代阿蝶三個戒名。

註:「戒名」是日本佛教式的法名,由於德川幕府規定葬儀都得在佛教寺院舉行並建墓,因此非 佛教信徒於死後亦有戒名。現代已廢除此令,大多為無宗教派式的公墓。

shimizujirotyo-1_min

清水次郎長(しみずのじろちょう)

テレビや映画の時代劇でよく知られた博徒の大親分、清水次郎長とその子分の大政、小政は、 架空のキャラクターではなく、日本の幕末維新期から明治の中期までの揺れ動く時代にかけて実在した人物である。

1820年、次郎長は静岡県清水市で船持ち船頭の三男として生まれ、本名は山本長五郎とい い、八歳のとき米問屋を営む叔父山本次郎八の養子となる。以来「次郎長」と呼び習わす。

若いころから喧嘩好きで有名だった。二十歳のとき、養父が病死。次郎長は家業を継いでおと なしくしていたが、22歳のときに、旅の僧に人相を見られ「とても25歳まで生きられない 」と言われてしまう。

愕然となった次郎長は、「それなら太く短く生きてやろう」とヤケになり、無宿渡世の博徒の 世界に身を投じる。その後、次郎長は博徒仲間と抗争を繰り広げながら、東海道に勢力を広げ ていく。全盛期には名古屋までおさえたという。

徳川から明治に代ろうとする1868年、錦の御旗掲げた官軍が江戸に向かって進んだとき、 次郎長は官軍から道中探索方を命じられ、帯刀を許された。

さらにこの年の9月、幕府の軍艦「咸臨丸」が清水港で官軍と抗戦。「咸臨丸」側は敗れた。

官軍の目を恐れ、誰も遺体を回収し葬ってやれないまま、乗組員の死体が海上に放置された。 次郎長はそれを憐れみ、子分らと幕軍の死体を引き揚げ、生家の所有地に埋葬して石碑を建てるなど手厚く葬った。

この事件をきっかけに、次郎長は幕臣の山岡鉄舟と知り合い、交誼を深めるうち、人生観が変 わった。

維新後、次郎長は切った張ったの世界と決別し、海運事業や開墾、英語教育などの社会事業に 精魂を注いだ。

おそらく世の中の激動を目の当たりにして、縄張り争いに血道を上げるヤクザの存在がひどく ちっぽけなものに思えたのであろう。山岡鉄舟との出会いがなかったら、ヤクザのままで一生を終え、「海道一の侠客」という美名を後世に伝えることもなかったろう。

次郎長は生前で三人の妻を持ったが、名前は皆お蝶。

初代お蝶は元々次郎長の親友の妹で、次郎長がまだ旅烏だった時代に一緒になり、10年あま りを共に過ごした。名古屋にいるとき、お蝶は病気になったが、なにせ旅から旅の暮らしでは 医者に診せることもままならない。そのまま病状を悪化させ、1858年12月末に死んだ。

葬式こそあげたけれども、旅の空の下のことだから、きちんと墓も立ててやれないことを、次 郎長は深く悔やんだ。このお蝶のことが忘れられず、次の妻にも同じ名を名乗らせた。

二代目お蝶は東京深川の芸者で、たまたま伊豆の同じ旅館に泊ったのが出会いとなった。しか し、二代目お蝶は明治2年(1869年)に無残な死を遂げる。徳川浪士と思われる者に斬られてしまい、即死ではなかったものの、夕方になって息が絶えた。

三代目お蝶は武家に育った女で、教養の相応に高く、次郎長より17歳年下である。大親分の妻となって、大勢の子分を抱えた一家の切り盛りは容易ではなかったろう。

次郎長は1893年に74歳で死に、三代目お蝶は1916年に81歳の高齢で亡くなった。 彼女の辞世の句が:

「頼みなき此世を後に旅衣、あの世の人にあふぞ嬉しき」

「あの世の人」とはいうまでもなく亡き夫次郎長である。

清水の梅陰寺に次郎長の墓があり、すぐそばに妻お蝶の墓石も立っている。墓石には初代、二 代目、三代目の三人のお蝶の戒名が仲良く並んでいる。

明治維新書籍

 - 日本歴史人物

スポンサーリンク

スポンサーリンク

  関連記事

夏目漱石的貓(中日文對照)

「咱家是貓。還沒有名字。完全搞不清在哪兒出生。只記得好像在一個陰濕的地方喵喵叫。 …

《昭和天皇實錄》內容公開  反映「君主的苦惱」

日本宮內廳9日公開了記錄昭和天皇生平的《昭和天皇實錄》。實錄內容交織了一些新資料 …

醫聖 華岡青洲(中日文對照)

1805年(文化2年),日本醫聖華岡青洲(1760-1835)成功完成了全世界首 …

坂本龍馬の妻 お龍

坂本龍馬の妻の名は、お龍といい、龍馬が仲の良かった姉乙女に宛てた手紙では、「おも …

千利休切腹之謎

日本茶道之祖千利休,因觸怒當時的掌權者豐臣秀吉,奉令切腹自殺這事雖聞名於世,但理 …

日本明治時代的文豪--森鷗外(中日文對照)

森鷗外是明治時代的文豪,既是醫生也是作家。可能因為他的官職是陸軍醫務局長的緣故, …

陰陽師安倍晴明(中日文對照)

陰陽師安倍晴明(中文) 大約持續了四百年的平安時代中期,剛好是女性文學百花爭妍的 …

紫式部

距今一千年前寫成的平安時代女性文學的不朽之作《源氏物語》,是作者紫式部身為憂鬱寡 …

豐臣秀吉與貓

自古以來,日本人養貓的目的並非在於貓具有捉老鼠本領的實用性,而是把貓當做寵物。古 …